――年末翔と明日香はハワイの別荘に来ていた。現在2人は別荘のバルコニーから海に沈む夕日を眺めている。「素敵……今年も翔とこうして2人きりでハワイの別荘で過ごせるなんて」明日香はうっとりとした目で翔を見つめる。「何で2人で過ごせないと思ったんだ?」翔は明日香の肩を抱きながら尋ねた。「だって翔。貴方は書類上とはいえ結婚したでしょう?」明日香は翔をじっと見つめた。「確かに結婚はしたけど、何度も言ってるだろう? 彼女は所詮祖父の目を胡麻化す為の妻だって。だから敢えて大人しそうな女性を選んだんだ。その証拠に今まで彼女の方から一度でも俺達に何か文句を言ってきたことでもあったか?」翔の問いに明日香は首を振った。「いいえ、無かったわ」「だろう? だから明日香は何も心配することは無い。今までと同じ生活を俺達は続けていくだけだよ」「だけど一つだけ不安なことがあるわ」明日香が不意に俯く。「不安なこと? 一体それは何だ?」「朱莉さんよ……。彼女、私の目から見てもすごく綺麗な女性でしょう? しかも女らしいし。彼女に心変わりなんて絶対にしないわよね?」その顔はとても真剣なものだった。「当り前だ。俺が明日香以外に心変わりなんてするはずがないだろう?」明日香の髪を撫る翔。「本当に? 本当に信じていいのよね? 私はね、この世で一番大好きな人は翔。貴方よ? だから、貴方の一番も常に私にしておいてよ? 例え私達の間に子供が生まれようとも私が一番大切なのは翔だけだからね? それを忘れないでね?」明日香は翔の首に腕を回す。「分かったよ明日香。例え新しい家族が増えたとしても、俺が一番愛するのは明日香だよ……」翔は明日香を抱きしめ、自分の心の中に暗い影が宿るのを感じた。(明日香。何故、自分の子供を一番に愛することが出来ないのに……お前は子供を欲しがるんだ?) 実はここ最近、明日香から子供が欲しいと翔はねだられていたのだ。しかし、カウンセラーの意向も聞き、子供を持つのはまだ無理だと言われていた。いや、それ以前に明日香の今の精神状態では妊娠中の身体の変化についていくことは難しいだろうと忠告されていたのである。今回翔が明日香の望み通りハワイに2人きりでやってきたのも、子供を持つのは後数年は考え直そうと説得する意味合いもあったのだ。 翔は一度深呼吸をすると、明日香に
「あ、明日香……。突然どうしたんだ?」久しぶりに明日香が怒りの感情を露わにしたことに翔は動揺した。「私が子供が嫌いなのは知ってるでしょう? 言うことは聞かないし、所かまわず泣くし、1人じゃ何も出来ないし……。小さい子供なんてね……犬猫と同じよ!」(い、犬猫と同じなんて……)明日香のあまりの言い分に絶句してしまった。(なら何故明日香は子供を望むのだろうか?)「明日香。もしかして子供好きの俺の為に無理して子供を産もうとしてくれているのか……?」しかし、明日香からの答えはあまりにも意外な内容だった。「いえ。私が子供を望むのはね……」明日香は翔に耳打ちをした。「!」翔は明日香の言葉にわが耳を疑ってしまった。「明日香……お前、本当にそんな理由で子供を欲しがっていたのか……?」震える声で翔は明日香に尋ねた。「あら……? そんな理由ですって? これって子供を産むのに十分な理由になると思うけど?」明日香は翔の頬に触れた。「すっかり日が落ちちゃったことだし、部屋に入りましょうよ。ワインで乾杯しない?」明日香は笑みを浮かべると部屋の中へと入って行った。「明日香……」1人取り残された翔は深いため息をつくと、琢磨にメッセージを送った――****ハワイ時間深夜1時――「琢磨、朱莉さんの今日の様子はどうだった? 何か困ったこととかありそうだったか?」ウィスキーを飲みながら翔は琢磨に尋ねた。『お前なあ……。そんなに様子が気になるなら自分から彼女に直接連絡とればいいだろう?』電話越しから琢磨のうんざりした声が聞こえてくる。「いや、それは無理だ。何故なら……」『朱莉さんに内緒で明日香ちゃんと2人でハワイに来ている。下手に連絡を入れて、ハワイにいることを知られたら肩身が狭い。って言いたいんだろう?』「何だ……良く分かってるじゃないか」『当たり前だ。お前と何年付き合ってると思ってるんだ?』琢磨の呆れたような声が受話器越しから聞こえてくる。「そうだよな……。何でもお見通しか……。それで朱莉さんの飼ってる犬の様子だが……」『ああ、分かってるよ。……ったく……。朱莉さんから子犬の動画が送られてきているから、後でお前のアドレスに転送しておいてやるよ』「ありがとう、すまないな」『そういう台詞はな……朱莉さんに直接伝えてやるんだな』「そうだよな
年が明けた1月2日―- 「マロン、暴れないで。身体洗えないから」今朱莉は新しく家族に迎えたトイ・プードルの子犬のシャンプーの真っ最中だった。朱莉は仔犬の名前を『マロン』と名付けた。それは犬の毛並みが見事な栗毛色をしていたからである。ブリーダーの女性に名前と由来を説明したところ、とても素敵な名前ですねと褒めて貰えたのも凄く嬉しかった。「はい、マロンちゃん。いい子にしていてね~」大きな洗面台にマロンを乗せ、お湯の温度を自分の腕に当てて計ってみる。「うん、これ位でいいかな?」マロンはつるつる滑る洗面台の上が怖いのか、さっきまで暴れていたが、今は大人しくしている。シャワーの水量を弱くして、そっとマロンに当てると、最初ビクリとしたが余程気持ちが良かったのか、途中で目をつぶって幸せそうな?顔でじっとしている。「そう、良い子ね~マロンちゃん」朱莉は愛しむようにマロンの身体にシャワーを当てて、シャンプーで泡立てて綺麗に洗ってあげる。マロンはじっと目を閉じて、されるがままになっている。丁寧にシャンプーを流し、ドライヤーで乾かしてあげるとフカフカで、それは良い匂いが仔犬から漂っている。「ふふ……。なんて可愛いんだろう」マロンを抱き上げ、朱莉は幸せそうに笑みを浮かべた。マロンが朱莉の家にやって来たのは年末が押し迫った時期だった。毎年、年末年始は朱莉は狭いアパートで一人ぼっちで過ごしていたが、今年は違う。広すぎる豪邸に大切な家族の一員となった仔犬のマロンが一緒に過ごしてくれているのだ。(私って多分恵まれているんだよね……?)マロンを相手に遊びながら、朱莉は翔と明日香のことを思った。(翔さんと明日香さんはどうやって年末年始を過ごしているんだろう……。もう少しあの2人と交流が出来ていれば、おせち料理の御裾分け出来たのにな……)朱莉はテーブルの上に並べらた1人用のお重セットをチラリと見た。母親が病気で入院する前は、毎年母親と2人でおせち料理を作って食べていた朱莉は1人暮らしになってからも、お煮しめや田作り、栗きんとんに伊達巻、黒豆、数の子は最低限作るようにしていたのである。長年作り続けていたので節料理の腕前も上がり、勤め先の缶詰工場の社長夫妻に家におせちを届けていたこともあり、喜ばれていた。「でもあの2人は美味しい料理を食べ慣れているだろうから、私のおせち料理は
1時間後――朱莉がキャリーバッグを肩から下げて億ションから出て来ると既に琢磨が外で立って待っていた。琢磨は朱莉に気付くと、頭を下げてきた。「新年あけましておめでとうございます。お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」朱莉は深々と琢磨に頭を下げた。「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。ですが……」琢磨は頭を上げる。「はい?」「それ程待ってはおりませんので気になさらないで下さい」琢磨は笑顔で答えた。そして、すぐに朱莉が肩から下げている大きなバックに気が付いた。「朱莉さん。随分大きな荷物をお持ちの様ですね」「はい。実はペットを連れてきてしまいました。あの、実はご連絡を頂いた時に既にシャンプーを終わらせていて。それで一人ぼっちで残していくのはかわいそうで……事前にお伝えせずに勝手に連れて来てしまい、申し訳ございませんでした」そして深々と頭を下げる。「そんな。どうか気になさらないで下さい。ところでこのキャリーバックの中、見せていただいてもよろしいでしょうか? 実は私も犬が好きでして……」「ええ。どうぞ」生垣にキャリーバックを置き、ジッパーを開けると、中には気持ちよさそうに眠っているマロンがいた。「え!? 寝てる。さっきは起きていたのに……」「アハハハ……。とても可愛い犬ですね。これはトイ・プードルですね?」琢磨は中を覗き込みながら尋ねた。「はい、初心者でも飼いやすいと書いてあったので。毛もあまり抜け落ちないし、匂いも少ないそうなんです」「ああ、確かにとても良い匂いがしますね。これも朱莉さんが一生懸命お世話をしている証拠ですね? でも、これならきっと……」「え? きっと……何ですか?」「いえ、何でもありません。ところで朱莉さん。いくら仔犬と言っても女性が持つには重いですよ。私が運びますから。」そう言うと、琢磨はキャリーバックを肩から下げてしまった。「あ、でもそれではご迷惑では……」「いえ、そんなことはありません。では行きましょうか?」琢磨に促され、朱莉は頷いた。歩く道すがら、琢磨が朱莉に尋ねてきた。「ところで犬の名前は何と言うんですか?」「はい、マロンていいます」「マロンですか……。あ、もしかしたら栗から取りましたね?」琢磨は笑みを浮かべた。「はい、栗毛色の可愛らしい子犬だったので」
「初詣って、この辺りで出来る場所があるのですか?」てっきり電車にでも乗るのかと思っていたのだが、一向に駅に向かう様子が無いので朱莉は尋ねてみた。「あ、すみません。まだ行き先を告げておりませんでしたよね。実は日比谷線の六本木駅のすぐ近くに出雲大社の東京分詞があるんですよ。今からそこへ行ってみようかと思っていたんです」「え? 出雲大社って……まさかあの出雲大社ですか?」朱莉は目を丸くした。「ええ、あの出雲大社ですよ」何処か楽しそうに琢磨は答える。「知りませんでした。六本木って大都会ってイメージしか無かったので……」朱莉は白い息を吐きながら言った。「……朱莉さんは殆ど自宅から外出されないんですか?」「はい。今住んでる億ションはご近所付き合いが出来そうな雰囲気でもありませんし。それに……」そこまで言うと朱莉は黙ってしまった。「あの……ご友人と会ったりとかは?」「高校を中退してからはバイトの掛け持ちや仕事で精一杯で親しい友人は特にいないんです。今の生活になるまで働いていた職場では同年代の女性もいませんでしたし」琢磨は歩きながら黙って朱莉の話を聞いていた。朱莉の今迄過ごしてきた境遇があまりにも不遇で何と声をかけてあげれば分からなかったのである。その様子を朱莉はどう捉えたのか、突然慌てた。「あ、すみません。折角お正月早々に初詣にわざわざ誘っていただいたのに。こんな気の滅入るような話をお聞かせしてしまって申し訳ございません」「いえ。とんでもありません。随分ご苦労されたきたのだと思って……。あ、朱莉さん、着きましたよ。ここが出雲大社の東京分詞です」「え? あの……ここですか? これは……随分可愛らしいですね……」てっきり有名どころの神社のように大きいのだろうと勝手にイメージを持っていたので朱莉は目の前に現れたこじんまりとした神社を見て驚いた。「すみません、朱莉さん。もしかして……驚いていますか?」琢磨が申し訳なさそうに頭をかいている。「いえ、とんでもないです。逆にすごく新鮮さを感じて感動してます。こんな都会の真ん中でも初詣が出来るなんて素敵ですよ」笑顔の朱莉を前に、琢磨は心の中で安堵した。(良かった……。取りあえず満足してもらえたようだ) その後、2人は中へ入り、お参りを済ませるとそれぞれお守りを買った。****「朱莉さんは何のお
琢磨が連れて来てくれたカフェは可愛らしい犬のイラストが描かれていたカフェだった。「このカフェは人間用のメニューだけでなく、犬用のメニューも豊富にあるんですよ」琢磨が真顔で『人間用』と言うので、思わず朱莉は吹き出しそうになってしまった。「どうしましたか?」「い、いえ……。九条さんて真面目なイメージしか無かったので……何だか意外な気がしただけです」「そうですか? そんなに真面目に見えますか? でもそう思っていただけるなら光栄ですね」 その後、朱莉はシフォンケーキとコーヒーのセット、琢磨はエスプレッソとチーズケーキのセットを注文した。「マロンにはこちらのケーキは如何ですか?」琢磨はメニュー表を見せた。それは手のひらサイズの可愛らしい3段重ねのデコレーションケーキである。「ほら、このケーキの説明を読んでみてください。何と魚や野菜のペーストで作られたケーキなんですよ」「うわあ……すごいですね。見た目はまるでケーキ見たいです。身体にも良さそうですし……ではこれにします」2人は窓の外を見ると、そこはゲージに覆われた小さなドックランになっており、マロンが走りまわっている。やがてそれぞれ注文したメニューが運ばれ、朱莉と翔はマロンの様子を見ながらカフェタイムを楽しんだ。その後、2人は朱莉の住む億ションへ向かった――**** 億ションに到着すると、朱莉は玄関で立っている琢磨に声をかけた。「本当に部屋に上がらなくていいんですか?」「ええ。おせちを分けていただくだけですからここで待ちます。琢磨は玄関から中へ入ろうとしない。余程朱莉に気を遣ってくれているのだろう。(お待たせする訳にはいかないから急いで準備しなくちゃ)朱莉はタッパを取り出すと、次々とおせち料理を詰めていく。そして5分後――「すみません、お待たせしました」おせちの入ったタッパを紙袋に入れた朱莉が玄関先にいる琢磨の所へやって来ると紙袋を手渡した。「あの、お口に合うかどうか分かりませんが……どうぞ」「ありがとうございます」紙袋を受け取り、中を覗く琢磨。「ああ。これはとても美味しそうですね。持ち帰って食べるのが今から楽しみですよ」「いえ、ほんとに対した料理では無いので期待しないで下さいね」「そんなことありませんよ。ありがとうございます。ところで朱莉さん……」「は、はい……?
正月休みも開け、もうすぐ1月も終わろうとしている頃――「朱莉、もうすぐ2月になるわね」お見舞いに来ている朱莉に母が声をかけてきた。「うん、そうだね。季節の流れって早いよね」朱莉は編み物の手を休める。「ねえ、朱莉。それって手編みマフラーでしょう?」「うん。そうなんだけど編み物って高校生の時以来だから中々進まなくて。やっぱり模様編みって難しいね」朱莉は恥ずかしそうに答えた。「その色だと、どう見ても男性用ね? ひょっとして翔さんに?」「う、うん」小さく頷く朱莉は……どことなく洋子には寂しそうに見えた。「大丈夫、きっと喜んで受け取ってくれると思うわ。お母さんもね、お父さんと付き合っていた時にマフラーを編んでプレゼントしたことがあるけどすごく喜んでくれたから」「でも手編みのマフラーって男の人から見たら重く感じるかなあ?」朱莉の物の言い方に洋子は違和感をいだく。(朱莉……。貴女と翔さんは夫婦なのよね? それなのにどうして重く感じるなんて言い方をするの? まだ一度も会わせてくれないし……)洋子洋子はずっと以前から翔に会いたいと思っていた。しかし朱莉にその事を告げると悲し気な顔をされたことがあり、それ以来尋ねるのをやめていたのだ。思わず、じっと我が娘を見つめる洋子の視線に朱莉は気付くと、慌てたように言った。「あ、ほら。例えば下手な編み目で身に着けるのが恥ずかしいようなマフラーを手渡されても、本当は使いたくないのに義務感から周りの目が恥ずかしくてもつけないといけないって思わせたら悪いかなって……。そう、それだけの事だから」朱莉の必死な弁明を洋子は複雑な思いで見つめるのだった—―****「ただいま……」ドアを開けると、部屋の奥からキャンキャンと嬉しそうに鳴きながらマロンが朱莉目掛けて飛びついて来た。「ウフフ……ただいま、マロン」マロンを抱き上げると、まるで尻尾がちぎれんばかりに降って喜びを現すマロンが朱莉は愛しくてたまらない。以前は寂しい思いで玄関のドアを開けて帰宅していたが、今では扉を開けるのが楽しみになっていた。マロンを抱き上げ、部屋の時計を見ると時刻は夕方の6時になろうとしていた。「いけない。病院で編み物に夢中になっていたから気付かなかったけどもうこんな時間だったんだね。ごめんね。すぐにご飯あげるから」マロンを床に降ろすと、マロ
ここは明日香と翔の部屋――「ねえ、最近どうしたの? 翔。何だかとても楽しそうに見えるけど?」お風呂から上がって来た明日香がテレビを見ながらおつまみとウィスキーを飲んでいる翔に声をかけてきた。「え? 何故そう思うんだ?」「だって、さっきスマホを見て笑顔になっていたからよ。ねえ……何を見ていたのよ? 私にも見せて?」明日香がテーブルの上に置いてあるスマホを素早く奪い去ってしまった。「お、おいっ! 明日香! 返してくれないか?」翔の慌てた様子に、明日香はピンときた。「何……? その態度何だか怪しいわね…。もしかして朱莉さんからなの? それとも別の女かしら!?」途端に明日香の顔が嫉妬に歪む。「違う! そんなんじゃないって!」翔は明日香からスマホを取り上げようとするとも、明日香はヒョイと避けて逃げてしまう。そして慣れた手つきでスマホを操作し……手を止めた。「あら? 何よこれは。動画?」「明日香!」翔の制止する声に耳も貸さず、明日香はファイルをタップした。途端に流れ出すトイ・プードルの動画……。「……」翔は頭を押さえた。「何よこれ。ただの子犬の動画じゃないの? これを見ていたの? あら……? 送り主は琢磨じゃないの。もしかして琢磨ってば犬を飼い始めたの?」明日香は翔に動画を見せながら尋ねた。「あ、い、いや。実は琢磨の知人が最近仔犬を飼い始めたらしくて……動画が送られてきたからと言って、俺にも送信してきたんだよ。その犬が……ちょっとかわいかったからつい見ていた。それだけの話だよ」(明日香……どうか、気付かないでくれ……!)翔は全身に冷汗をかきながら言う。「ふ~ん……。つまらない動画じゃないの。こんなもの見て楽しんでたの? だけど何もそんなに必死に隠そうとしなくてもいいじゃないの? 変な翔ね」明日香は少しの間、動画を見ていたが……突然眉が上がった。「ど、どうかしたのか? 明日香?」翔がためらいがちに声をかけた。「うううん、何でもないわ。はい、返すわ」明日香は翔にスマホを返す。「私もシャワー浴びてくるわ。そのあとお酒飲むから用意しておいてね」「あ、ああ。分かったよ」それだけ言い残すと明日香はバスルームへと消えて行った。その後ろ姿を見送ると翔は溜息をついた。(ふう……。危ないところだった。何も気が付いていないよな? でも今
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると